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ー2009年12月19日『第四回ベーシックインカム入門の集い』「ベーシックインカムのある社会を構想するー実現の可能性は?」に参加してー

関曠野のBI論について、今現在の私の理解によると、BIは変革の核心部分ではなく、政府紙幣の発行という根本的な変革を補うものでしかない。

資 本主義システムは国家と私企業と銀行という三つの構成要素が相互に関連することによって民衆を包囲し、民衆から力を奪い取る。私企業は民衆を「労働者」と して限定し、国家は民衆を「納税者」として限定し、銀行はその「労働者=納税者」即ち「国民」から、民衆の力を「貨幣」として奪い取る。このシステムは 「国民」が銀行に借金をする仕組みになっているのだ。そして、その借金を返済するために、民衆はますます「労働者」として限定され、ますます「納税者」と して限定される。

関の政府紙幣は国家が銀行から紙幣発行権を奪い取ることによって、このシステムを終焉させようというものである。即ち、 国家が紙幣発行者となることは第一に、銀行が民衆の力を「貨幣」として奪うことを決定的に不可能にする。第二に、国家は民衆から税を徴収することを辞め る。第三に、国家が「国民」に紙幣を支給すること(BI)によって、私企業が民衆を「労働者」として限定することを不可能にする。この三つ組は貨幣が「資 本」であることを辞めて、単なる「交換の道具」になることをもたらす。なぜならば、貨幣が「資本」になるのは国家と私企業と銀行が民衆を包囲し、民衆から 力を奪うことの一つの効果だからである。



一方、小沢修司のBI論は資本主義国家における社会保障制度の発展として構想されたものである。この論の鋭敏さは、日本社会の現状からすれば、BIを導入することは十分にかのうであることを具体的な数字を示して立証したことである。

小 沢はひとつの典型として「夫婦(男性の方働き+専業主婦)と子ども一人(18歳)の年収700万円」の家庭を取り上げる。現行の税制では、この家庭の手取 り収入は609.65万円である。ところが、一人月額8万円のBIを実現するのに必要な財源確保のために、税率約46%という高税率で所得税を徴収して も、BI導入後、この家庭の手取り収入はなんと657.6万円に増えてしまうのだ。もうひとつの典型「シングルペアレントで子ども一人(18歳)で年収 500万円」の場合、現行の税制では手取り収入は440.25万円であるが、BIの導入によって456万円とこれまた増える。実質的な減税。一方、BIの 導入で手取り収入が減るのは、シングルで子どもなし、年収が280万円を超える場合などである。

また小沢は今現在政府レベルで盛んに議論されている「給付付き税額控除」「戸別所得保障」「子ども手当」「全額税方式の基礎年金構想」等が既に、ほとんどBIの一歩手前であることを指摘している。なぜ、このような事態になっているのか。
小 沢の指摘はこの点でも実に鋭敏である。これまで資本主義システムを維持するためには、「雇用の安定」と「家庭の安定」が必要であった。なぜならば、この二 重の安定が民衆を「労働者=納税者=国民」として限定するからである。民衆は生得的に「労働者」であるわけでも、「納税者」であるわけでも、「国民」であ るわけでもない。資本主義システムに取り込まれている限りにおいて、それらであるに過ぎない。どのような社会システムであれ、すべての民衆を完全に取り込 むことは出来ない。こうした必然的な「漏れ」を最小限に抑える回収の仕組みを持たないシステムは自らを維持することが出来ない。

資本主義 の場合、社会保障はそのシステムから漏れてしまった民衆を「労働者=納税者=国民」として回収するための仕組みである。ところが、科学技術の発展によっ て、需要を満たす生産量確保のために必要な労働力が激減した。資本家たちはそれほど多くの「労働者」を必要としていないのだ。従って、資本主義の現段階に おいて、「雇用の安定」はそもそも不可能になっている。一方、「家庭の安定」は「雇用の安定」が確保されなければ成り立たない。こうした状況の中でシステ ムを維持するために、これまでとは異なる回収の仕組みが要請されている。BIがその新しい仕組みである。それ故、現在議論されている社会保障制度の改革は 潜在的なBIにならざるを得ないのだ。

いずれの資本主義国家も遅かれはやかれ小沢型のBIを導入するだろう。一方、関型のBIはそうでは ない。関型の場合は、民衆が権力を奪取しなければなるまい。なぜならば、民衆は国家に支配されているのであり、国家は資本家に支配されているのであり、産 業資本家は銀行家=金融資本家に支配されているのだから。民衆がこの支配体制から国家権力を奪取しなければ、政府紙幣を発行することは不可能である。資本 家たちがそう易々と自らの支配を手放すはずがない。それ故、関の提案を実現するためには、社会主義革命と同じぐらい熾烈な闘いが必要になることであろう。 しかし、関の提案はマルクス主義者のそれとは大分異なる。なぜならば、権力を奪取することによって実現するのは「労働者」による生産手段の獲得ではなく、 国家による紙幣発行権の獲得に過ぎないのだから。

関もマルクス主義者も、次の点では共通している。即ち、

生産物(非物質的なものも含む)の価値=民衆の自由になる価値

と いう等式を実現すること。資本主義においては絶対に不可能な等式。なぜならば、その等式の不可能性(=搾取の必然性)にこそ「利潤」が生まれるのだから。 マルクス主義者はその等式の実現のために必要不可欠のこととして、「労働者」による生産手段の取り戻しを考えていたわけだ。関はそのように考えない。国家 権力に基づいて政府紙幣を発行し、かつ、民衆にBIを支給すれば、銀行は「債権者」としての権力を失い、国家は「徴税者」としての権力を失い、私企業は 「雇用主」としての権力を失う。そして、やはり国家権力に基づいて「適正価格」を調整すれば、件の等式が実現されるというのだ。徴税せずに「交換の道具」 を支給する権力社会体、そのような社会体は「国家」と呼べるのだろうか。それは別の名称で呼ばれなければならないのではないか。
(こまつばら  しゅんいち  哲学)

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