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米国—イスラエルの虐殺を補助するエジプトの政権—Viva Palestina Convoyがガザの包囲を破る
イギリス議会の議員、ジョージ・ギャロウェイに率いられた国際的な救援隊”Viva Palestina”がガザの包囲を破った。 1月6日、多国籍からなる6518人のボランティアは、156台に上る乗り物に多量の薬や援助物資を積み込み、パレスチナ自治区へと乗り込んだ。彼らは世界規模の連帯に後押しされている。特にトルコやアラブ、そしてマレーシアに至までのイスラム世界によるものに。 5000マイルにも及ぶ旅を経た救援隊がガザに入った時、150万人いるガザ市民の多くが、通りで彼らを歓迎した。「最後の車が検問を通過するのを待つ事10時間(エジプト政府に遅延を感謝する)、ガザ地区の全長にも及ぶ人々の列の光景は、この発案が本当に必要なものであることの証明だった」。と救援隊のリーダー、ケビン・オベンデンは語る。 三度目の救助隊は、ガザの人々を抑圧する国際的な共謀、軍と銀行家によるワシントンの政権、米国が資金供与する差別的なイスラエル国家、米国が資金供与するエジプトのムバラクの独裁政権、によって阻まれた。ガザに入る前の日に、国際的なボランティアの人々は、2000人のエジプトの暴動鎮圧部隊と覆面警官に警棒や石、そして放水によって強襲され、重傷者を含め55人が負傷、そして7人が逮捕された。エジプトの警官隊は、救援隊への強襲に抗議していたガザの人々に向って発砲した。救援隊がいる間、イスラエルはミサイルをガザに打ち込み、3人のパレスチナ人を殺害した。ガザから戻るとギャロウェイ下院議員は覆面警官に囲まれ、強制的にロンドン行きの飛行機へと乗せられ、エジプトから退去させられた。 ライフライン3は12月6日に、200人のボランティアと、イギリス及びアイルランドの人々から寄付された物資を積み込んだ80台のトラック、救急車とともにロンドンを出発した。ヨーロッパを抜ける道中では、多くの人々に暖かく迎えられ、ベルギー、イタリア、ギリシャからトラックと物資が加えられた。トルコでは多くの民衆によって迎えられ、下院議員10人を含む125人と60台以上もの輸送車が救援隊に加わった。 米国からのボランティア62人の中の1人であるInternational Action Centerの活動家ラルフ・ローフラーの報告によると、30年間で始めてトルコ政府が認めた政治的なデモ、歴史的なタクシム・スクエアでの出来事は、ガザ封鎖地区に向うViva Palestinaの救援隊をサポートするために行なわれた。多くの熱心な聴衆が冬の冷たい雨の中、足を止め、トルコ国民と政府によるViva Palastinaの三度目のガザ救援隊への支援を感謝するジョージ・ギャロウェイとケビン・オベンデンの言葉を聞いた。「タクシムを出発した救援隊はアダパザリへと向いスタジアムで一夜を過ごしました。救援隊がアダパザリに到着したのは午前2時だったけれど、人々は支援の準備をして待っていてくれました。地元民が車やバスに群がり、200人分の救援隊関係者の寝具や手荷物をスタジアムに運び入れてくれました」。 シリアでは、イギリスからのボランティアの報告によると「私たちは音楽と歓声に迎えられました。国境の駐屯地では、スピーチ、音楽、花、そして税関の職員による国旗の掲揚といった盛大なレセプションが待ち受けていました」。 「またシリアの難民キャンプから来たパレスチナの人々の歓迎は圧倒的でした。彼らは、我々がヒーローで天使だと語り、何度も何度もガザへの支援を感謝していました。私たちは、これが私たちの義務であり、本分であり、占領に対して戦うことが栄誉であると語りました。60年間も故郷から追い出された人々の厚い歓待に対して、他に何を語れるでしょう?とても謙虚な気持ちにさせられる経験でした・・・」 「12歳の女の子が私に言いました。”一緒に行って故郷を見てみたいけれど、入れてくれないの。行ってくれてありがとう。私たちにあきらめない強さを与えてくれます”と」。 そしてヨルダンに於いても、救援隊は政府によって公式に迎えられ、人々には暖かく迎えられた。しかし紅海の港、アカバまで来ると(エジプトのシナイ半島からガザへ向う予定だった)エジプトのムバラク政権は、地中海の港のアル・アリシュからしか入国が出来ないと通達してきた。そのため一度シリアへと戻り、トルコの船で輸送車を運ぶ間、多くのボランティアが飛行機で追うことを余儀なくされた。 エジプト政権のイスラエルへの追従は(イスラエルは過去に二度エジプトを侵略し、子どもや捕虜を含む何千ものエジプト人を殺害し、何百ものエジプト人捕虜を処刑した)ベテランの政治活動家にもショックを与えた。これは一般のエジプト人とは全く対照的な姿勢であり、一般の人々は機会があればVP救援隊への共感を明確に示している。 最初の167人のVP関係者がアル・アリーシュに到着した時、エジプト当局は彼らのパスポートを没収し、残りの救援隊は入国できないと伝えた。空港での座り込み抗議の後、エジプト当局は一時的に譲歩したが、次の日には43台の輸送車と積み荷はイスラエル占領地を通過させねばならないと、救援隊のリーダー達に伝えた。Viva Palestinaのリーダー達が、それでは支援物資がガザへ届く見込みがない、として交渉している間に、ムバラク政権は暴動鎮圧部隊を送ってトラックを没収しにかかった。制服を着用した警官隊が警棒や放水、催涙弾を放っている間に私服警官はボランティアに向けて石を投げつけた。活動家達は襲撃に立ちはだかり、襲撃者の1人を捕まえたが、孤立は後から続いた。Viva Palestinaはエジプト当局に捕まった救援隊のメンバーの釈放と引き換えにエジプト政府の強行的な要求を受け入れ、エジプト政府が 許可しなかった物資をトルコへと送り返し、そこで必要な人々に分配した。 Viva Palestinaへの暴行は、ムバラクの警官隊によるガザ・フリーダム・マーチ1400人への襲撃とガザへの支援を阻んでからわずか一週間後に起こった。ムバラク政権は、ガザ攻撃の記念日にカイロで暖かい歓迎を受けたイスラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフに対しては、全く正反対の態度をとる。1970年代にネタニヤフはシオニストの特殊部隊Sayeret Matkalの一員として、エジプトでテロ作戦に参加していた。 様々な圧力にも関わらず、Viva Palestinaの三度目のガザ入りは果たされた。人々の勝利だ。これによって救援が十分に果たされたとは言えないが、封鎖に対する強力な政治的挑戦を見せる事ができた。とオベンデンはいう。「私たちは、援助を通した政治的なメッセージと運動のよりよき理解が得られるよう、戦略的な見通しでViva Palestinaを立ち上げた。この試みは、パレスチナの人々との国際的な連帯の広がりに貢献すると考えている」。 ガザの第一のライフラインであるフードトンネルに、2メートル半もの深さの壁をガザとの境に築くムバラク政権(米国の資金と軍の技術供与を得ている)にとって、封鎖されたガザ地区のパレスチナの人々との連帯は、危険なものとなるだろう。(訳注:現在ムバラク政権の不支持率は80%を上回っている)そしてイスラエルが次のガザへの大規模攻撃の準備を進めているという証拠が集まっている。 長期に渡る武力による圧力は、ガザの人々を押しつぶし、人々の封鎖に反対する運動は増々強くなっていく。Viva Palestinaの活動は、人々が決起することを呼びかけたものとして出現した。ロンドンに戻ったあと、ジョージ・ギャロウェイはメディアに対して語る。「今回の一件で私はエジプトへの再入国を禁じられた。しかしそれは私がガザへ戻らないことには繋がらない。ガザへの道は一つではないからだ」。 ービル・セシル |